8.05/9.02

8月15日の終戦(敗戦)記念日は、毎年メディアでも大きく取り扱われ、それにまつわる催しや行事なども様々なかたちでおこなわれている。では、9月2日はどうであろうか。1945年のこの日、日本政府はポツダム宣言の降伏文書に調印し、無条件降伏をした。国際法の観点からは、日本の敗戦は9月2日となるところであろう。だが、そうはならなかった。9月2日を終戦(敗戦)記念日とすることは、アジアへの侵略とその加害責任という問題に向き合うことになる。権力中枢はそのどちらをもネグレクトし、その延命のためのみに汲々としたのである。
昭和天皇の『終戦の詔勅』いわゆる玉音放送によって終戦を迎えたというのは、一つの物語といってよいだろう。ここで語られているのは壮大な虚構である。そもそも戦争を始めたのは「東アジア諸国の安定」を願っての戦争であり、「他国の主権を排除して領土を侵す」ものではないと言っていっている。ポツダム宣言は受諾するが、その内容まで認めているものではない、ということを滲ませている。しかし、このままでは戦争の惨禍は広がる一方なので、天皇の主体的な決断によって終戦(休戦)にするということが言われている。
後段の部分、政府の公式口語訳(意図的な誤訳)を離れて意訳すれば、「国体(天皇制)は護持された」ので、国民は天皇制維持のためと称して濫りに騒ぎ立てたり、事件を犯すことのないようにせよ、でないと諸外国は天皇制廃止の方向で一致してしまうので元も子も無くなってしまう。そのことをよく理解せよ、と言っているのである。国体の護持が連合国側に保証されることを受けて『終戦の詔勅』は出されたのである。
国体護持派にとっては、8月15日の『終戦の詔勅』をもって終戦という構図が是非とも必要だったといえる。このことによって1945年の敗戦にもかかわらず、明治以来の天皇制の肝は残された。8月15日が終戦(敗戦)記念日となることによって、戦争責任の問題は焦点がぼかされ霞んでいったのである。